松本市に「旧山辺学校校舎」という明治期に建てられた学校建築物があります。国宝の「旧開智学校」とどことなく似ていますが、それもそのはずで旧開智学校を参考にして建てられています。この校舎は里山辺という市街から少し離れたところにあります。そのため今回もグレイシアを走らせて校舎まで行ってきました。
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Google先生にユニークなルートを案内されましたがなんとか到着。緩やかな登りなのでミニベロでも問題なく走れます。
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改めて「旧山辺学校校舎」についてですが1885年(明治18)に建てられた木造2階建の学校建築物です。当時は「兎川学校(とせんがっこう)」として廃仏毀釈により廃止された兎川寺の本堂を学校として利用していました。
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ここに限らず廃仏毀釈の嵐が全国的に吹き荒れましたが、当時設立が急がれた小学校に廃寺を流用することで急速的な開校が可能になりました。江戸時代からあった「寺子屋」がそのまま小学校になったイメージでしょうか。そのため明治前半期において旧開智学校や旧山辺学校のような独自校舎を建てるということは贅沢な話であったと言えます。
「兎川学校」はその後は寺の復興と本堂の買い戻しにより新校舎を建築。さらに近隣校との統廃合で山辺小学校となります。新築することになった校舎は冒頭に述べたとおり旧開智学校を参考とし1876年(明治9)に完成しました。
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この校舎の特徴は旧開智学校を参考に和洋折衷としながらも「和」の要素を多分に感じさせる簡素なデザインです。お寺の意匠を取り入れた「八角塔のデザイン」と「窓の障子」がわかりやすい違いです。
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旧開智学校は写真のようにステンドグラスはじめ高価な舶来品のガラスを使用しています。そのため「ギヤマン(ガラス)学校」と呼ばれていましたが、旧山辺学校は「障子校舎」とからかい半分に呼ばれていたそうです。これは建築費や実用・保守に関しての旧開智の反省、国からの校舎建築指針、建築費用の削減などからこのようなデザインになったようです。ただのコストカットではなく現実的な見地に立っての校舎であったと言えます。
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*写真は昭和の学校校舎イメージ
国や県からの建築指針の影響は大きかったはずです。この旧山辺学校校舎も明治後半には保守性に難があった漆喰壁から板張り壁に改修されています。これは旧開智も同様で両校舎とも後に復元で現在の姿になった経緯があります。板張り壁の校舎というと「昭和の学校校舎」のイメージですが実際は明治後半と早い段階で校舎のフォーマットができていたことになります。
*近畿地方や一部都市部では1934年(昭和9)の室戸台風によって「鉄筋コンクリート造り」になりますが地方では戦後も木造校舎が使用され続けます。
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例の如くあまり展示物をアップするわけにはいきませんので校舎内の様子がわかるものを。展示については旧開智学校同様に当時の教育資料をはじめ豊富な展示があります。
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旧開智学校と比較すると教育以外にも周辺地域の暮らしに関する資料が多く展示されていました。また、農耕器具の唐箕(とうみ)など「体験型」の展示も用意されていました。個人的には「ヤマハのオルガン」の運用話や唱歌「山辺の里」の38番という異常な長さがとても印象的でした。
ほかにも長野県内の学校建築物や戦国時代の山城跡の情報もありました。学校建築と城跡に関しては前から行ってみたいところがあるのでそのうち行ってみたいと思います。
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校舎受付には「旧山辺学校校舎まるはクイズ」なるものがあったのでついでにやりました。全問正解すると受付で記念品がもらえます。
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旧山辺学校校舎は存在を知ったときは失礼ながら旧開智と比べて地味だと思いました。ただ、知っていくうちに歴史的な背景があってのデザインや仕様だったのだと勉強になりました。同じ明治期の学校建築物でも結構違うものなので旧開智学校と合わせて見ると面白いと思います。