「塩の道(千国街道)」を歩く 松本市街地〜熊倉の渡し跡

 何度か本ブログで「塩の道(千国街道)」について扱っていますが今回は松本市街地から「熊倉の渡し跡」までの区間です。

*実際に本記事の区間を回ったのは2021年春です。公開し忘れていました……。

 全部歩くと時間がかかりすぎるため可能なところは自転車で走りました。また、市街地を中心に街道の痕跡が分かりにくいので『塩の道 歩けば旅びと 千国街道をゆく』などルートが載った資料は必携です。

 松本側の起点は信毎メディアガーデン前交差点にある「牛つなぎ石」です。こちらの交差点は千国街道以外にも飛騨高山に向かう「野麦街道」、善光寺に向かう「善光寺街道」の分岐点にあたります。

 「牛つなぎ石」から中町通り、国道143号線を経由して市街地を抜けてきました。正直なところ「牛つなぎ石」を見た後は市街地はスルーしても良いと思います。人や車通りが多い上に住宅街を進むのでストレスです。また、皆無ではないのですが目立って街道の面影というものが残っていません。この後の「塩倉池」含めアルプス公園の東入口駐車場を起点に歩くと楽だと思います。

主要道路基準では蟻ヶ崎高校、深志高校を通り過ぎ「神沢池」の手前にあたります。奥に見える坂の脇道を進みます。坂道ではない方の脇道(神沢池沿道)でも行くことは可能。

 アルプス公園に向かう交差点にたどり着くので曲がらずにそのまま進むとすぐに「塩倉池」です。塩倉という地区名は運ばれてきた塩を一時的に近くの「海福寺」に置いたことが由来なのだとか。以前に投稿した小谷村エリアに残っていた塩蔵と同じ役割を担っていたということです。

 塩倉池からの松本市街地の眺め。ここからでも良い眺めです。

 ルートから少し外れた場所から眺めですがあの坂を登っていきます。

 遠目から見ても斜度がキツそうな坂道ですが実際に登ってみるともっとすごい斜度でした。壁ですね。

 坂道を登っていると塚山古墳の説明看板を見つけました。芥子坊主農村公園近辺やあとで出てくる「老根田縄文遺跡」などこの辺りは古墳が多く残っています。

 坂道を進んでいくと画像左側の細い脇道が見えるのでこれを進みます。特に標識などは無いので要注意です。もし、曲がらずに直進していくと「芥子坊主農村公園」まで行ってしまいます。

 脇道の途中からの眺め。木でわかりにくいですがアルプス公園の東入口駐車場が見えます。

 脇道を抜けるところ。アルプス公園の東入口駐車場を通過して坂を降りたあたりの道です。写真の真ん中に赤いものが見えるかと思いますがそれが下の写真の場所です。

 先ほどの写真で見えた赤いものは防火水そうの標識と消化ホースの保管ケースです。この脇道を進みます。ちなみに写真左に進むとアルプス公園の東入口駐車場・花の丘に繋がります。

 「老根田縄文遺跡」の標識が途中で設置されています。

 進んでいくと分岐点に到着。左はアルプス公園内の「山ノ神」、右は「芥子坊主農村公園」に繋がっています。写真では見えませんが今回は直進して「養老坂」という下り坂を進みます。

 現在地を示す地図が分岐路の脇に設置されています。養老坂を降りてアルプス公園敷地外から254号線道路まで薄く道が書かれていますが詳細は不明です。塩の道ルートとしてもこの辺りのルートが不明とのこと。北入口駐車場経由で迂回するとしています。

 養老坂を降って休憩場所の前に出ます。本来ならこの向こう側に進むようですが道が見当たりません。先述の通り北入口駐車場を目指します。

 もう少し進んだところから下を覗いてみましたが木が生い茂っていてどうなっているのか把握できない状態です。

 北入口駐車場から松本トンネル料金所手前に出て254号線を平瀬橋方向に降ります。降りる途中で脇道に入りさらに降りていきます。

 降りていくと二手に分かれる分岐が見えます。行き止まりを示す標識がある方に進みます。

 進んでいくと踏切に差し掛かります。踏切を渡ってすぐのところに「加助夫婦惜別の岩」があります。

 惜別の岩に絡んでこのあたりの坂は「泣坂」と言うらしいです。この坂をまっすぐ降りていくと国道19号線に出ます。

 国道に出て豊科・明科方面に進みます。犀川の対岸に記事最後に出てくる「熊倉の渡し跡」が見えます。

 途中で篠ノ井線の線路下を潜って脇道に入ると「平瀬城跡」に行くことができます。今回は割愛しますが案内板から20分ほど歩いていくと平瀬城跡にたどり着けます。

 再度、国道に出て進んでいくと安曇野市の標識。この手前がちょうど先ほどの「熊倉の渡し跡」の対岸にあたります。

犀川を見やると木が生い茂っていて対岸はほとんど見えません。

 木が生茂る中にも開けたスペースがあります。おそらく「熊倉番所跡」があったのではないかと思われます。番所跡を示す標識があるそうですが今回見つけられませんでした。また別の機会に探したいと思います。

 もう少し進んだところからだと対岸が見えました。なにやら車が停まっていますが「熊倉の渡し跡」から犀川に降りて釣りをしているようです。江戸時代を中心に熊倉番所から対岸までを舟渡しで往来してたとのこと。

 こちらが対岸の「熊倉の渡し跡」です。今ではこのように渡し跡の石碑が建っています。

 現在は舟渡しは行っていないので田沢橋(田沢駅前の道路)を経由する必要があります。

 石碑の裏にはこのように川に降りるためのステップが設けられています。先ほどの釣りをしていた方はこれを利用して降りたようです。

 近くにある「熊倉春日神社」裏に当時の渡し舟が保存されています。

 さらに渡し跡の近くには熊倉橋の跡を示す石碑もあります。

 石碑にも書かれていますが各地区から工賃を工面するなど当時としては費用の面でも難事業だったようです。川の氾濫で橋が流されるなどして昭和30年代まで舟渡しが行われていたようです。ネットで検索すると昭和期の舟渡しの写真がでてきます。

 以上、今回は松本市街地から熊倉の渡し跡まで扱いました。自分が調べた際に分岐や道の画像情報が少なくて困ったこともあり写真を多めに入れてみました。熊倉の渡し跡からは豊科駅方面に進み穂高へと進んでいきます。正直なところ豊科〜穂高の区間は塩の道の痕跡がほとんど残っていません。さらに市街地かつ国道をほぼ直進していくだけとなります。穂高まで飛ばしても良さそうですが痕跡が皆無というわけでも無いので穂高までひっくるめてまとめるか検討中。