長野県池田町に存在した「池田鉄道」の痕跡を辿るサイクリングをしてきました。点と点で行ったことはありますが、今回は大糸線の安曇追分駅(起点)から北池田駅跡(終点)まで通しで回りました。なお、自転車で回ってきましたが、本記事は鉄道と各駅のことばかりなのでサイクリング成分は皆無です。
池田鉄道は大正時代にわずか13年足らずで廃線となっており、その痕跡も極々僅かに残る程度です。駅についてもホーム跡と駅舎が一部残るのみ。中には民地になっていたり正確な箇所も不明だったりするので可能な範囲で見て回るりましいた。とはいえ、廃線(1938年)からの経過年数を鑑みればよく残っている方です。
今回は事前に『池田町誌』や複数の写真資料集、国土地理院の航空写真、各ブログ記事で下調べして回っています。漏れはあると思いますし、民地になっているところもあるのであくまでも可能な範囲で回ります。あと、確認した史料・資料(特に写真)は著作権の絡みがあるので本記事では掲載しません。記事中の路線図は信濃池田駅跡に立つ案内板(池田町教育委員会設置)から拝借しております。
※本記事は投稿日と来訪日時(2025年8月)が約1年ほどズレています。
池田鉄道とは
「池田鉄道」はかつて長野県安曇野市の大糸線「安曇追分駅」から池田町の「北池田駅」までを結んでいたローカル私鉄です。運行期間は1925年(大正14)〜1938年(昭和13)の13年間。
JR東日本の大糸線の前身である「信濃鉄道」の安曇野市穂高ー大町市の区間が高瀬川西側に敷設されており、池田町エリアは陸の孤島のごとく取り残されていました。信濃鉄道敷設の際に反対したことから生じた状況ですが、信濃鉄道沿線の物流・発展の様子から焦りを感じたようで池田町の住民主導で鉄道を敷設したという次第。住民主導といっても実際は力のある地元の庄屋が無理やり従わせた……周りを引っ張っていったようです。運行会社は鉄道名と同じく池田鉄道。株式会社でしたが実態としては信濃鉄道の子会社で、路線自体も信濃鉄道の「支線」という扱いだったようです。
当初は篠ノ井線の明科駅から池田町を経由して信濃大町駅に繋げるルートを企図したようですが、許可がなかなか降りず、最終的に安曇追分駅ー北池田駅の6.9km区間が完成しました。当初計画していた信濃大町駅には繋がっていないので北池田駅で折り返すといういわゆる盲腸路線でした。これが後々の命運を左右したのでしょう。開業したものの初年から赤字で「四十雀電車」(始終空)というあだ名が付く始末。営業赤字や製紙業衰退、世界恐慌、戦争などで追い込まれたこと、途中行き止まりの盲腸路線だったことで有用性が示せなかったことも相まって僅か13年という短命路線に終わりました。
安曇追分駅(起点)
池田鉄道の起点となるのは大糸線の「安曇追分駅」です。この駅は信濃鉄道(現在の大糸線)の駅として1915年に開業。1925年には支線となる池田鉄道の始発駅にもなりました。
安曇追分駅は2023年の青春18切符のポスター駅に採用されており、2025年で開業110周年を迎えました。
現行ホームの東側にホームらしき遺構があります。書籍や他の方のブログなどでは池田鉄道のものとありますが、年代的にも怪しい感じです。戦後の住宅地図でも線路が使用されているような書かれ方をしているので貨物取扱時(1962年廃止)のホームかもしれません。
流用の線も無いとは言い切れませんが今となっては謎です。
高瀬橋
安曇追分駅から次の十日町駅の間には「高瀬川」が流れています。当時はトラス橋の鉄道橋がかかっていました。上の画像は信濃池田駅跡に立つ案内板(池田町教育委員会設置)に載っている画像。ネットや写真資料集にはもっと精細な写真が掲載されているので興味のある方はそちらをご覧ください。
当時のトラス橋のカラーは不明ですが、大糸線の穂高駅ー有明駅の間にある「穂高川橋梁」、南大町駅の西側に架かる「高瀬川橋梁」がイメージとして近いのでしょう。
本記事では割愛しますが高瀬橋だけでもそれなりの歴史があり、細かく扱うと一記事分にはなります。現在の高瀬橋は2000年(平成12)に架け替えられたものですが、先代高瀬橋(コンクリート橋)は北側に道路一本分ずれた位置に架かっていました。
明治以前からの高瀬橋はおおよそ現在の位置にかかっていたようですが、戦後すぐに池田鉄道の鉄道橋の橋脚を一部使い回す形で先代の高瀬橋が架けられました。道路線形も橋の位置に合わせてカーブする形に変わっています。この辺りの変遷は国土地理院の航空写真から確認できます。長らくそのまま使用されたものが2000年の現高瀬橋架け替えで本来の線形に戻ったと言えます。当時の橋は道幅が狭く、車のすれ違いのみならず、歩行者や自転車も危険に晒されていたことも理由のようです。
現在では池田鉄道当時からの橋脚など痕跡は丸々撤去されていますが、橋があった位置の東西道路跡でその痕跡が伺えます。
十日市駅
高瀬橋を渡ってから次の駅である「十日市駅」まではわずかに線路跡とされる遺構が残っています。線路の基礎部分にあたる構造物です。ただし、現在は民地の中なので立ち入って確認するのは御法度です。場所と構造物は把握していますが本記事では割愛します。
十日市駅の跡を示す標柱が県道329号沿いに建っていますが、旧高瀬橋と線路遺構の位置からして実際はもっと北側の田んぼのど真ん中と思われます(ビニールハウスのもっと奥)。
会染駅
十日市駅から次の会染駅までのルートも廃止早々に田んぼや宅地になったようで正確な線路ルートは不明。それでも中間地点には基礎部分の遺構が残っているのでなんとなく点として把握することは可能。なお、上画像の南側にある墓地の北側にも同様の遺構が残っています。
そこからさらに大町市がある北へ向かい、開地学園池田校と会染保育園の東側、会染八幡宮の東側を抜けて行き会染駅に至ったようです。
「会染駅」は調べるとすぐ出てくるくらいにはネットでも情報が上がっていますが、民地内に標柱が建っています。ホームの基礎を民地構造物で一部流用していますが民地内なので本記事は割愛。
また、南側には当時の駅舎(駅長宿舎とされる)の建物がほぼそのまま残っています。(奥の交差点の一時停止標識・カーブミラーが立っているのが県道51号)
柏木駅
会染駅を出てほぼ真っ直ぐ北上し、現在の道の駅の駐車場内を抜けていく形で「柏木駅跡」に向かいます。
「柏木駅跡」も駅の痕跡は残っておらず、「池田町多目的研修センター」の駐車場に標柱が立つのみ。
標柱の南側に通っている水路構造物になんとなく面影やヒントがありそう。
南池田駅
各資料を見るに柏木駅から次の南池田駅までに現在の県道55号を横断します。
正確な横断箇所は不明ですが前後の痕跡位置からツルヤ池田店の南側手前の交差点あたりと思われます。
横断してから平林クリニックさんの駐車場を通過して、現在も残る一本道を少し北上して南池田駅に着いたようです。この一本道は当時の線路線形をそのまま流用したのでしょう。道路の南側の突き当たりが平林クリニックさん。
南池田駅跡は現在は民地でブロック塀前に標柱が立っています。見てすぐわかりますがブロック塀の基礎部分にホーム形状の名残があります。
信濃池田駅
南池田駅跡からさらに北に進みますが、出発してすぐに長野県池田工業高等学校前の位置でさらに東側へ緩やかに蛇行しています。上の画像は先ほどの南池田駅の標柱前から北側を撮影したものです。奥の電柱あたりから東側にカーブが始まったようです。
カーブが始まったであろう地点から西側に目をやると「長野県池田工業高等学校」が見えます。池田鉄道が走っていた当時は「池田町立池田実業補習学校」という名前でした。
現在の「池田保育園」と「池田町多目的グラウンド」の中を通過する形で信濃池田駅に向かうルートだったようです。そこからさらに進んだところにある民地駐車場の空間も線路用地としての痕跡のようです。
そうして進んだ先に「信濃池田駅跡」があります。東側のホーム遺構のみならず池田鉄道本社の社屋も残っています。行った時期の関係で生い茂った木々に埋もれていますが奥に見える薄緑色の建物が本社跡。
南側に面したホームの遺構。
ホーム南端で線路が分岐して社屋南側に貨物車が発着していたらしいです。ここもホーム跡を流用してブロック塀を立てているのが見て取れます。
信濃池田駅跡の道路を挟んだ北側の水路沿いにも線路線形とホームの痕跡があります。
冒頭の通り、ここまで掲載してきた路線図は標柱横の解説案内板から抜粋したものです。
この案内板の路線図で辿ってきたルートが概ね合っていたことを確認。
北池田駅(終点)
ここから終点の「北池田駅跡」までの区間についても、部分的に線路線形を流用したかのような道路が航空写真(Googleマップ)でなんとなく確認できます。
黒田精工(株)の敷地を通り抜け、アパートが建つ直線路(池田町総合福祉支援センター東側)を通っていたのでしょう。
おそらくこの水路沿いも通ったと見られます。上の写真の西側の建物は使われていないようです。
終点である「北池田駅跡」。ここはホームの痕跡が残るのみ。
とりあえず安曇追分駅から北池田駅まで通しで走りました。自転車でまわるには非常に短い距離である6.9kmでしたが、酷暑だったこともあり謎の達成感があります。
東側には行き止まりですが、かつての線路線形を流用したであろう直線路が通っています。
ホームは事前に確認した資料と現地の遺構から2面だったことがわかります。乗り場はいわゆる3番まであったようです。終点駅なので折り返しのこともあったのでしょうが、来るべき「大町市への延伸」を意識した故の作りだったと思われます。そんな日は来ませんでしたが……。
廃止までの流れ
池田鉄道は当時のローカル私鉄の割には、高瀬川に架かっていたトラス橋や電化車両設備などかなり奢った高規格仕様でした。おそらく信濃大町駅に繋ぐことを意識していたこともあるのでしょう。しかし、悲しいかな短距離の盲腸路線を走る路線故か初年度から赤字経営でした。『池田町誌』にも記載がありますが、人と貨物の取り扱い数は信濃鉄道(大糸線)と比べるべくもありません。そんな池田鉄道に付いたあだ名が「四十雀電車」(始終空)でした。
そこに金融恐慌による製糸業衰退、世界恐慌が追い討ちをかけます。経営の苦しさから無念の気動車への変更を余儀なくされます。ところが気動車変更の直後に戦争によるガソリン規制が入るという泣き面に蜂の状況。その後、信濃鉄道が国に買収される際に一緒に買い取ってもらうことを謀りますが、短距離の盲腸路線であることから買収を却下されます。当時の貴族院の審議で「企業救済は買収の理由にはならない」とバッサリ切り捨てられる始末。要らない子扱いされた池田鉄道は短命路線として1938年に廃止となりました。合掌。
おわりに
冒頭で述べた通り、廃線(1938年)からの年月を考えれば、現状でも遺構がよく残っている方だと思います。ただ、将来にわたってこれらのものは遠からず消えていく運命です。そうなる前に一通り見て回ることができたので個人的には満足です。
最後に個人的な感想含めて思うところを書いていきますが、「廃線して残念だなぁ……」といった類の想いは一切ありません。どちらかと言えば、池田鉄道には「開業した背景と廃止までの経緯」から教訓めいたものを感じています。
当時は官線開業から取り残された地域が「やむ無く私線として鉄道を開業する」というケースは珍しくありませんでした。しかし、池田鉄道は話が別で「自分で断っておきながら、後から羨ましくなり開業した」という路線です。羨ましさでなくとも焦りはあったのでしょう(悪意に満ちた書き方に感じると思いますが、事の経緯を調べるとこの他に表現しようがありません)。しかしながら、開業してみたものの短距離盲腸路線で信濃鉄道の支線という位置付けだったので経営状態も芳しくなく、延命を図りましたがあえなく廃業となったわけです。
流行や儲け話などに乗っかる際に「乗るしかない!! このビッグウェーブに!!」というフレーズをネットを中心に見た記憶があります。明治期からの鉄道敷設は人の移動、物流など沿線の経済発展にも大きく寄与しました。当時の鉄道開通というものはまさにこの「ビッグウエーブ」だったと言えます。これは現在で言うところの大規模開発や道路拡幅・道路新設事業などに相当するものなのだと思います。こういったものに手放しに賛同したり乗っかれば良いものではありませんが、その「ビッグウエーブ」の乗り損ねた者たちの末路と悲哀というものを池田鉄道からそれとなく感じ取ることができるのです。しかも、その影響は現在進行形で現在の池田町の有り様に大きく響いたと思います。
とは言え、年表通りに廃線にならなかったとしても短距離盲腸路線という呪われた生まれなので遅かれ早かれ消える運命だったと思います。遅くとも1970年代のモータリゼーションの波に飲まれて消えていたのではないでしょうか。歴史に「if」はありませんが一応付け加えて締めとします。